第二回【CEOインタビュー】とりあえずやってみる、そして全力でやり切る
EnlytのCEOはどんな人?ということでCEOである久保さんにインタビューをしていきます!
本記事は、前回の続編です。
まだ読んでない方は、こちら『第一回【CEOインタビュー】素直に生きることが人生を楽しくする』をぜひ先に読んで戻ってきてください!
目次
プロフィール:株式会社Enlyt CEO 久保 利彦
学生時代の10年間はバドミントン選手として国体に出場するなどの実績を残し、大学卒業後はフィリピンに英語留学、ロンドン芸術大学にファッションを学ぶために進学、ヨーロッパでフリーランス、ベトナムのダナンで IT転職と国内外で数多くの経験をしながら、人生を歩んできた。 久保さんのことについてもっと知りたい方→https://twitter.com/TKHYKO
フィリピンでのIELTSの勉強と苦労
―― ロンドンの大学に進学する前にフィリピンに英語留学に行っていたんですよね。フィリピンを選んだ理由なども含め、当時の心境などを詳しく教えてください。
久保:そうです。ロンドンの大学に行くと決意した後、日本に1ヶ月ほど一時帰国してフィリピンのバギオに向かいました。
その理由がIELTSです。
IELTSを知らない方に簡単に説明しておくと、「私は英語がこれくらいできますよ」という証明書のようなものです。
その証明がないとイギリスの大学には入学できません。イギリスの大学に英語圏でない国の人が入学する際に、大学規定のスコア以上が必要となるのです。
大学入学を目指すと決めた時、僕はそのことを知りませんでした。
あとIELTSはTOEICとは比べ物にならないほど難しいというのです。
TOEICもこれまで受けたことがないからあまりピンときてませんでした。笑
しまいには、大学に入学願書とIELTSスコアを提出する期日が半年を切っていたんです。
このへんから、なんとなく周りがネガティブ発言をすることを理解し始めました。
さて、ここからIELTS6.5以上(大学規定のスコア)を半年以内でとらなければならない状況に追い込まれました。
しかし、英語力も、お金もない。
そんなとき、ロンドンでの友達が「フィリピンって良心的な金額でクオリティの高い英語の授業を受けれるよ」と言っていたことを思い出しました。
早速グーグルで「フィリピン」「IELTS」と検索。
そこのトップに出てきたのがフィリピンのバギオにあるIELTSの勉強に特化した学校でした。
当時日本人がフィリピンで英語を勉強するというのはあまりメジャーではありませんでした。なのでネットにも情報が少なく本当に学校が存在するのかも怪しい中、とりあえずフィリピンのバギオに向かうことにしました。
―― 英語力に自信がない状態から、規定のスコアを半年以内でクリアしないといけない、また、フィリピンの情報が明確でないなか不安などもあったと思いますが。
久保:僕はとりあえず行ってみるとかやってみるってのが多いですよね笑
学校に着いた初日に、簡単に受講生の英語力をみるために模擬試験が行われたのですが、僕は0点に近い点数を叩き出しました。
このときに初めてIELTSの難易度を知りました。
そして、無謀な挑戦だと気づきました。
けど、バギオまで来てしまったからには諦めきれませんでした。
フィリピンのバギオでの生活の色々は割愛させてもらうとして、とにかく1日12時間くらい毎日勉強しました。 しかし、そう簡単に英語力は上がりませんでした。
僕は合計4ヶ月間その学校で勉強しました。毎日約12時間の勉強。週末も遊びには行かず勉強。しかし、週に1回ある模擬試験では、いつになっても目標の点数になりませんでした。
時間がない、しかし点数があがらない、しかし毎日英語学習にコミットしていることは確か。
頭が痛くなりました。ホントに何回バファリンを飲んだか、、、
帰国して「IELTSの規定のスコアはとれませんでした。なのでイギリスの大学に入学できません。」なんて絶対に言いたくありませんでした。
友達と両親に日本で会う顔がない。てかこのままでは日本に帰れない!!と思いながらかなり焦っていました。
4ヶ月目のフィリピン滞在の最後の月の模擬試験までスコアが4.5〜 5.5を行ったり来たりしていましたが、最終本試験でなんとか滑り込みでゴールスコアがとれました。
今思うと無茶苦茶しんどかったです。これをもう一度しろと言われたらできないでしょうね。
大学入学のために再びロンドンへ
ロンドン芸術大学に見事合格
―― 半年間で規定のスコアを獲得を成し遂げてしまうとは驚きました。入学手続きなどは済ませていたのでしょうか?
久保:実はフィリピンにいる間に願書提出の手続きは済ましていました。後出しでIELTSの証明書も添付しました。
フィリピンでの戦いを終えたあとは、日本に一時帰国して大学入学の結果を待ちました。
入学条件でいうと、入学願書の必要事項の中に「自身の作品」という項目がありました。
元々ファッション畑の人間でないので作品は1つも持っていなかったんですが、ロンドンに観光ビザで行った際になにか爪痕を残してやろうと思って行った撮影の写真を作品として提出しました。
スカイプでインタビューをした大学の面接官の人に、この作品の作るに至るまでの経緯と、実際に撮影したことはとても高く評価されました。このタイミングでその爪痕が意外な形で生じました。
運良く僕が第一希望にしていたロンドン芸術大学(ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)に合格することができました。
そしてついに大学入学のためロンドンに降り立ちました。
大学生活の苦労話
―― 大学生活が始まって実際どうでしたか?
久保:とにかく1年目は地獄でした。。。笑
もともと英語ゼロ人間でしたが、来る前に猛烈に英語の勉強をしていたので英国といえども多少はやっていける自信がありました。
しかし入学初日にその自信は完全に打ち崩されました。。。笑
僕が話す英語は聞き取ってもらえない、そして他の人が話す英語がほとんどわからない。
それに加えて、僕は大学院ではなく通常の学位をとる学部だったため周りの子たちは19歳、20歳でとても若かったせいか、彼ら彼女らが聞き取れなかったときのリアクションはこんな感じでした。
「What!?」+ ちょっとイラっとした顔
それが自分の英語が通用しないその状況をより辛いものにしていました。。。
入学して初めの6ヶ月間は英語を話すことすら少し怖くなり、イラッとされる度に心が折れそうになっていました。
しかし壮絶な努力とけっこうな高いお金を払ってこの大学に入学したのでここで諦めるわけにはいきませんでした。
また、この大学に来た本来の目的はファッションの勉強だったので、英語で躓いている暇はありませんでした。
とりあえずその「What!?」+ ちょっとイラっとした顔をする子達を味方につけて、なんとかその辛い状況を緩和させる作戦にでました。
作戦と言ってもとりあえず仲良くなるように絡んでいくってだけでしたが。笑
お昼ごはんを食べる際は輪に混ぜてもらったり、わざわざ席の隣に座って絡んだりしました。
最初はほぼほぼ無視されていたり、イギリスの話題ばかりで日本でいうとジャニーズの誰々がとか俳優の誰々がとかのイギリス版をされていたので、全くついていけないし英語にもついていけないしでとても大変でしたが、粘って接していたら彼ら彼女らもだんだん心を開き始め、僕に興味を持ち始めました。
相手が心を開いてくればもう勝ちです。
私の英語にも耳を傾けながら、色々と教えてくれるし、相手が話す速度が速ければ「もう少しゆっくり話してくれ!!」と言いやすい関係性ができていました。
とはいえそれでも授業や課題は全て英語ですからやっぱり1年目はキツかったです。
ロンドンでフリーランス開始
社会で生き残るための術を身につける
―― ロンドンでフリーランスとしても活動されていたそうですね。どのように案件をとっていたのでしょうか?
久保:大学1年目のときから大学での勉強以外にフリーランスとしての活動を始めていました。
大学での勉強だけでは実践的なスキルを身につけるのは難しいと考えていたので、勉強と実践を並行して行うことを意識していました。
大学にいくだけでは、バドミントンが上達したくてバドミントンの教本だけを読んでいるようなものなので、いかに学んだことを実際に試す機会を増やし、そしてその経験で疑問に感じた点を大学で答え合わせをする機会も増やすかを考えていました。
そのためファッションに関わるお仕事であればなんでもやりますというスタンスでお仕事を探しはじめていました。
しかし、元々ロンドンに知り合いがいたわけでもなければ、これまでファッション業界で仕事してきたわけでもないので、1年目はとりあえず種まきからはじめました。
色んな求人に応募したり、イベントに参加したり、自分でできることは全部やりました。
仕事探しをしている時 MixB という掲示板サイトを特に使っていました。
英語も十分ではない日本人が仕事をゲットするのは本当に難しい状況でした。
なので僕は自分なりに考えて色々工夫することにしました。
それは、「絶対に自分にはできない職種に応募してなんとか面接までこぎつけて、とにかくお話をして、自分自身の売り込みをして、名刺を置いて帰ること」でした。
今思うと面接に時間を割いてくれていた人たちに大変申し訳ないことをしたなと思いますが、そうやってどうにか繋がりをつくって、最終的になんでもいいからどうにか仕事までこぎつけたいという思いで必死でした。
その結果だんだんと名前を覚えてもらえるようになり、関係性も少しずつできるようになりました。
ちょうど2年目を迎えたくらいから、無給でマガジンの撮影や、小さな展示会の設営・運営に呼んでもらえたり、パートタイムでファッションに関わるお仕事ができはじめたりと、これまでの自分営業が身を結んできていました。
主なお仕事はこちらでした:
・ 映像、写真の撮影のディレクター(有給)
・小さな展示会の企画、運営(無給)
・ロンドン、ミラノ、パリコレクションでの大規模展示会での通訳兼セールスアドバイザー(有給)
このときにフリーランスのお仕事の関係で、上記の写真にもあるようにミラノ、パリには年に2、3回ほど行けるようになっていました。
―― かっこいいですね。ファッションの本場の地で、日本からの留学生が簡単にできることではないと思います。
久保:今振り返ると、このときが何かを売るということの本質的なことをしていました。
人に会う、話をする、相手が必要としていることを探す、自分が今何ができるかを探す、そしてそれに全力を注ぐ。
何もない状態で前に進もうと思うと、一番大事なことをするのだと今になってわかりました。
日本での数ヶ月の仕事
―― 日本でもお仕事をされていたそうですが、どのくらいファッション業界で働いていたのですか?
久保:ロンドンの大学を無事卒業し、そのあとは約2年ヨーロッパでお仕事をしていました。
このときフリーランスのお仕事で様々な人との繋がりができていました。
その中で特にご縁がある方がいて、その方とお仕事をすることになりました。
日本に帰ってからは、約1年間、20代後半から40代後半の女性をターゲットにしたコンセプトストアの海外貿易業務、MD、アシスタントバイヤーを担当しました。
主なお仕事はこちら・1シーズン50〜60の海外ブランド、デザイナーを担当
・商品の買い付け
・価格交渉
・貿易業務
・海外のクライアントが来日の際のアテンド業務
・販売促進、MD
実は、ここで一旦ファッションから離れ、現職であるIT業界に進出しベトナムにいきます。それについては、次回の記事で詳しくインタビューしていきます。お楽しみに。
Enlytについて
株式会社Enlytはテクノロジーの進化と時代の変革に応じて新しいアイデアとサービスを創出することで、世の中に新たなビジネスチャンスを提供するテクノロジー集団です。Enlytは少数精鋭のメンバーのため、積極的なメンバーが活躍できる機会が多分にあり、日々自己の成長を実感することができる環境があります。年齢・性別に関係なく、和気あいあいと業務をしている会社の雰囲気は、THEベンチャー企業という雰囲気が味わえます。Enlytでゼロから事業を作る一生ものの経験をしませんか?採用の詳細はこちらから!
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