妖怪の夜に、来場者データはひとつも残りませんでした——観光DXの現場を一人の客として歩いてわかったこと
みなさん、こんにちは。Enlytの久保です。
先日、福岡・柳川の料亭旅館 御花で開催された夜間イベント「奇怪夜行2026」に行ってきました。仕事の依頼があったわけではありません。一人の客として1,800円のチケットを買い、昼はうなぎを食べて、夜の文化財を歩いてきただけです。
ただ僕は職業柄、どうしても体験の裏側にある仕組みを見てしまうんですよね。この記事は、「素晴らしい夜だった」という素直な感想と、その裏で静かに起きている構造の話を、両方書き残しておくものです。

目次
なぜ一人の客として夜の柳川を歩いたのか
僕たちEnlytは、自治体や観光にかかわる事業者のみなさんとデジタルの仕事をしてきました。その中でずっと感じていたのは、観光DXの議論が「どのツールを入れるか」の話に偏りがちで、現場で実際に何が起きているかの解像度が、意外と共有されていないということでした。
最初の問いの質が、最終的なアウトプットの質に影響するんだと思います。「何を導入するか」から始めると、表面的な答えしか出ません。だから僕は、時間を見つけては自分の足で観光地を歩き、一人の客としてお金を払い、体験の中で見えたことを記録していくことにしました。今回はその第1回です。
先にお伝えしておくと、訪問先との利害関係は一切ありません。そして僕は、このイベントが大好きになって帰ってきました。批評のために行ったのではなく、良いものを良いと言い、その上で業界全体に共通する構造を考えるために行っています。
まず言いたいのは、このイベントの設計が見事だったことです
工芸と文化財と物語を編集する力
奇怪夜行は、創業210余年の八女提灯の老舗・伊藤権次郎商店と、400年の歴史を受け継ぐ柳川藩主立花邸 御花が共同で開催する、提灯アートの夜間イベントです。立花家に伝わる妖怪絵巻の物語から着想を得て、国指定名勝の建物と庭園に、妖怪の描かれた提灯が灯ります。

暗闇の中に提灯の光だけが浮かぶ大広間は、本当に見事でした。妖怪という題材、和紙を透ける光、文化財の空間。どれか一つでも成立するのに、三つが重なっている。「ここでしか見られないもの」を、地元の資産だけで組み上げているんです。

個人的に一番感心したのは、展示のルール設計です。会場には「こちらの提灯のみ触ることができます / You can touch just this lantern.」という日英併記のサインがありました。「触るな」ではなく「これは触っていい」で語る。禁止ではなく許可で設計されたルールは、体験の温度を下げないんですよね。細部にまで世界観を通す意志を感じました。

「入場して終わり」ではない収益の階段
ビジネスの目で見ても、設計は緻密でした。入場1,800円から始まり、会場内の夜市での飲食、夜の水路を行く舟、妖怪をテーマにした特別客室での宿泊、そして完売していた怪談会。お客さんの熱量が上がるほど、次に払える選択肢が用意されているんです。「入場料で終わり」の夜間イベントが多い中で、体験の階段がそのまま収益の階段になっています。
まちを巻き込む回遊の仕掛け
会場は御花だけではありません。三柱神社と北原白秋生家がサテライト会場として接続され、まち全体では連携企画「妖しい夜巡り」が同時開催されていました。500円で提灯を借りて夜のまちを歩ける「提灯まち歩き」もあります。これは、工芸品をその場で収益化しながら、会場間の回遊を体験に変え、歩く人自身が夜のまちの広告になるという、一石三鳥の仕掛けだと思います。

それでも、来場者データはひとつも残りませんでした
ここからが本題です。そして先にはっきり書いておきますが、ここから先は御花さん固有の課題の話ではありません。僕がいろいろな観光地を歩く中で繰り返し目にしている、業界に共通する構造の話です。今回の視察は、その構造を一つの現場で具体的に確かめる機会でした。
僕はこの夜、チケットを買い、飲食をし、たくさん写真を撮り、3つの会場を歩き回りました。それだけ熱量高く過ごしたにもかかわらず、主催者側に「僕が来た」というデータは一件も残っていません。紙のチケットには通し番号もQRもなく、購入時に何かを聞かれることも、登録を促されることもありませんでした。
QRコードは全部「外向き」でした
誤解のないように言うと、デジタル接点がなかったわけではないんです。音声ガイドアプリのQR、アーティスト紹介のQR、公式サイトやイベントSNSへのQR、撮影OKを示す公式ハッシュタグの掲示。むしろ豊富にありました。

ただ、それらは全部「こちらから情報を出す」方向にしか向いていませんでした。来場者に何かを届けるQRはたくさんあるのに、来場者の存在が事業者の手元に残る仕組みはゼロ。矢印が全部、外向きなんです。こういう状態、みなさんの施設でも心当たりはないでしょうか。
お金の流れはデジタル、情報の流れはアナログ
もっと興味深かったのが、夜市の会計の仕組みです。決済は会場の中央レジに一元化されていて、コード決済やクレジットカードはもちろん、WeChat PayやAlipayまで対応していました。インバウンドのお客さんを見据えた、かなり本格的な構えです。
ところが、注文の情報はそこからアナログに切り替わります。レジで支払うと、メニューごとに作られた紙の交換カードを受け取り、それを各ブースに持っていく。ブース側はマスキングテープで手作りしたグリッドのボードに手書きで注文を管理し、できあがると口頭で名前を呼んで渡す。


お金の流れは完全にデジタルで一元化されているのに、情報の流れは紙と手書きと声で運ばれている。この二層構造を目の前で見たとき、僕は「ああ、これだ」と思いました。
僕はこれを「人力ミドルウェア」と呼んでいます
システムとシステムの間をつなぐソフトウェアを、開発の世界ではミドルウェアと呼びます。この夜、券売と予約と各ブースとサテライト会場という分断された仕組みの間を、スタッフのみなさんの声と足と手書きがつないでいました。券売のスタッフさんは隣の会場のチケットをその場で案内してくれましたし、順路の中継地点には必ず案内の方が立っていました。
体験としては、まったく破綻していません。むしろ温かい。ただ、これは「人力ミドルウェア」とでも呼ぶべき状態で、三つの見えないコストを静かに積み上げていると思うんです。一つ、データが一件も残らない。二つ、繁忙期の人員が確保できたときにしか成立しない。三つ、夜間イベントのコストが人件費に張り付き続ける。
実はこれ、僕たちの本業であるオフショア開発の失敗パターンとそっくりなんです。「伝わったはず」の情報が人の解釈で運ばれ、ズレが後から噴き出す。人が運ぶ情報は温かい代わりに、記録に残らず、スケールしないんですよね。そして体験の質が高い現場ほど、この構造は誰にも気づかれないまま続いていきます。
「階段はあるのに、糸がない」——温度モデルで見る観光地の構造
僕たちは観光やまちの仕事をするとき、来訪者を熱量で三つの層に分けて考えています。初めて訪れる低温層、気に入って再訪を考え始める中温層、ファンとして通ってくれる高温層です。

この夜のイベントを当てはめると、低温層向けの体験は文句なしに強い。高温層向けの受け皿も、特別客室や完売する怪談会という形でちゃんとある。つまり、階段は完成しているんです。
欠けているのは、段と段をつなぐ糸でした。イベントで温まった何千人という来場者が、翌日には誰なのか分からなくなる。次の年、また同じようにゼロからの集客が始まる。せっかく上りかけた階段の途中で、お客さんが毎年こぼれ落ちていく構造です。
僕たちが自治体やまちの案件でLINEミニアプリを使うことが多いのは、ここに理由があります。旅先の一夜のために新しいアプリを入れてもらうのは、ハードルが高すぎる。でも、すでにスマホに入っているLINEなら、温まったその瞬間に、負担なく糸を結べます。長崎県松浦市の観光DXでも、オンデマンド交通の予約でも、考え方は同じでした。使わせるのではなく、溶け込ませる。ユーザーに新しい習慣を求めない設計です。
明日から使える診断の視点
この夜の学びを、観光地や文化施設を運営するみなさんが自分の現場に当てられる問いに置き換えると、次の三つになると思います。
一つ目。うちの会場で一番熱量が上がる瞬間はどこで、その瞬間の半径5メートルに、お客さんとつながる接点はあるでしょうか。入口や出口ではなく、感動の直後にこそ糸を結ぶ場所があるはずです。
二つ目。うちのQRコードの矢印は、どちらを向いているでしょうか。情報を出す接点と、お客さんが残る接点を分けて数えてみると、多くの場合、前者ばかりになっています。
三つ目。スタッフの声と足でつないでいる業務はどこで、それは繁忙期が終わっても続けられるでしょうか。人力ミドルウェアは、気づかないうちに現場の頑張りに依存しています。
大事なのは「うちはデジタル化が遅れているかどうか」ではなく、「どの温度のお客さんを、どの接点で受け止め損ねているか」を見ることだと思います。ツールの話は、その後で十分です。
まとめ——良い現場ほど、構造は見えなくなる
柳川の夜は、本当に良い夜でした。だからこそ思うんです。体験が良い現場ほど、その裏にある構造の問題は見えなくなります。おもてなしが優秀であるほど、仕組みの分断は誰にも気づかれないまま、人の頑張りで埋められ続けるんですよね。
僕はこれからも、時間を見つけては一人の客として現場を歩き、この連載として書き残していこうと思っています。もし自分の施設やまちを同じ視点で見てみたいと感じた方がいらっしゃったら、まずは今回の三つの問いを、現場を歩きながら自問してみてください。それだけで、見える景色が少し変わるんじゃないかなと思います。

よくあるご質問
Q1. 観光DXは何から始めるべきでしょうか?
ツールの選定からではなく、来訪者の熱量が一番上がる瞬間の特定から始めることをおすすめします。感動の直後に「つながる接点」を置けるかどうかが、その後のデータ活用すべての土台になります。
Q2. 夜間イベントの来場者データは、具体的に何に使えますか?
翌年の開催告知を広告費をかけずに届けられるほか、宿泊や飲食といった単価の高い次の体験へのご案内、来場傾向に基づく企画の改善に使えます。毎年ゼロから集客をやり直す状態から抜け出せることが、一番大きな価値だと思います。
Q3. 専用アプリとLINEミニアプリ、観光ではどちらが向いていますか?
初訪問のお客さんが多い施設では、旅先で新しいアプリをインストールしてもらうハードルが高いため、LINEミニアプリのほうが向いているケースが多いです。通ってくれるファン層が育ってから専用アプリを検討する、という順番をおすすめしています。
Q4. 予約システムが複数に分かれているのは問題でしょうか?
システムが分かれていること自体よりも、来訪者から見て導線がバラバラに見えることが問題です。既存のシステムを無理に入れ替えなくても、案内の層を一つに束ねるだけで体験は大きく変わります。
Q5. 文化財や歴史的建造物でも、世界観を壊さずにデジタル接点を作れますか?
作れると思います。今回のイベントでも、決済や多言語対応は世界観を保ったまま実装されていました。大切なのは汎用ツールの見た目をそのまま持ち込まないことで、接点のデザインを空間の世界観に合わせて設計することです。
Q6. こうした視察や相談をEnlytにお願いできますか?
はい。今回のような現場視点での診断から、接点の設計、LINEミニアプリなどの開発・運用まで、一気通貫でご相談いただけます。まずは現状の接点を一緒に歩いて棚卸しするところからでも大丈夫です。





