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「取る設定」に換えるところから始める、産地観光型観光DXの始め方

みなさん、こんにちは。Enlytの久保です。

先日、和歌山県湯浅町の醤油蔵、湯浅醤油さんの九曜蔵に行ってきました。前回の柳川は一人で勝手にチケットを買って歩きましたが、今回は少し事情が違います。参加している経営者コミュニティの見学会にお誘いいただき、五代目当主の新古敏朗さんご自身の案内で蔵を回り、もろみの櫂入れと、ペットボトルで仕込む醤油づくりを体験させてもらいました。

仕事の依頼があったわけではありません。ただ僕は職業柄、体験の裏側にある仕組みをどうしても見てしまうんですよね。この記事も前回と同じで、素晴らしい半日だったという感想と、観光DX・デジタル活用を支援するEnlytの視点からその裏で静かに起きている構造の話を、両方書き残しておくものです。

湯浅醤油九曜蔵の外観

なぜ、今度は醤油蔵だったのか

前回の御花さんは「観光地を運営している老舗」でした。今回は「製造業が観光を運営している老舗」です。同じ老舗でも、人の来方がまったく違います。

イベントは年に一度の頻度で、蔵見学は毎日の定常フローです。そして何より、醤油は消耗品なんですよね。感動した人が家で醤油を切らしたとき、もう一度買うという出口が最初から用意されている。観光地には「次に来るのは来年」という壁がありますが、蔵にはその壁がない。この違いが温度モデルにどう出るのかを確かめたくて、和歌山まで行ってきました。

このシリーズは、僕が現場を一つずつ歩いて、同じレンズで見ていく記録です。1本では何も証明できませんが、5本、10本と重なったときに初めて「業界に共通する構造」と言えるようになると思っています。今回はその2本目です。

まず言いたいのは、この蔵の体験設計が見事だったことです

見学を無料にし続けている理由

湯浅醤油さんは2004年から蔵見学を受け入れていて、多いときには年間10万人規模の来訪があったそうです。それだけの規模になっても、見学は無料のままです。有料にしたらどうかと勧められたことは何度もあったそうですが、断り続けている。理由を伺うと、現場を見て、味見をして、説明を聞いて、そこで初めて醤油が伝わる、という考え方でした。

これは、言うのは簡単ですが20年続けるのは簡単じゃないですよね。無料の見学が年に10万人分の試食を生み、その試食が直売所の売上を作る。この構造を先に信じて投資した人がいる、というのが今回の一番の前提です。

百年の木桶と、醤油ソフトクリーム

蔵に入ると、百年以上使われている杉の木桶が床に埋め込まれていて、法被を着てその前に立ちます。桶の縁は醤油が染み込んで黒く光っていて、当主が「ここまで」と手で示すところまで櫂を入れる。香りと重さと音で、もろみが生き物だということが分かります。

湯浅醤油の蔵に並ぶ杉桶

隣の棟には、2025年12月にお披露目されたばかりの関西最大級の新しい木樽があります。国産の杉を切るところから完成まで2年かかったそうです。百年前の桶と、できたばかりの樽が同じ敷地にある。守るだけではなく、次の百年の器を今作っている、ということですよね。

2025年に完成した大型の杉樽

そして直売所の横には醤油ソフトクリームがあります。「生一本黒豆」という醤油を上からかけて食べる。この機械、最初は1日に5個10個しか売れなくて償却もできない赤字だったのを、それでも続けたのだそうです。世界観への投資と、続ける胆力。作り手としての僕は、ここに一番しびれました。

醤油をかけて食べるソフトクリーム

説明書に書いてある「1年間の通知設計」

体験で持ち帰るペットボトルの醤油には、A4の説明書が付いています。これが本当によくできているんです。「仕込んでから約1年で完成」「使う分だけ搾ってください」とあって、かくはんの頻度が段階的に書いてある。最初の1週間は毎日、1ヶ月までは2日に1回、2ヶ月めからは3日に1回、3ヶ月めからは週に1回。説明書は日本語のほか英語・中国語・韓国語・スペイン語があり、下の部分を切り取ると、自分の名前と仕込んだ日を書くラベルになります。

持ち帰り醤油の説明書

ここまでが、湯浅醤油さんの話として書きたかったことです。

ここから先は、湯浅醤油さん固有の話ではありません。蔵見学を受け入れている老舗、たとえば酒蔵や味噌蔵、窯元、製茶場といった、僕が「産地観光型」と呼んでいる型の事業者に共通して見える構造の話です。当主への敬意は変わりませんし、むしろこれだけ設計ができている蔵だからこそ、構造の輪郭がはっきり見えたんだと思っています。

熟成期間は、いちばん濃い関係期間なのに、空白でした

さっきの説明書を、もう一度見てください。1年間、客は家で醤油の面倒を見ます。最初の1週間は毎日ボトルを振る。そのたびに蔵のことを思い出す。これはどんなメールマガジンより強い接点ですよね。

では、その1年間に蔵から何が届くか。何も届きません。説明書の連絡先は住所と電話とFAXです。当主に「体験した人から、その後連絡が来たりしますか」と伺ったところ、連絡は特にないそうです。

1年間のかくはん頻度と蔵からの接点の有無を示す図

僕はこれを「熟成期間=関係期間」と呼ぶことにしました。産地観光型の体験には、家に帰ってからも続く時間があります。醤油なら1年、味噌なら数ヶ月、お酒なら開栓まで。その時間は、事業者にとっていちばん濃い関係期間なのに、ほとんどの現場がその時間を設計していない。

しかも、通知の設計はもう説明書に書いてあるんです。いつ、何回、何をするか。ないのは、それを送る主体だけです。LINEでもメールでも紙の暦でも構いません。「そろそろ3日に1回にしましょう」「今日から週1回で大丈夫です」「そろそろ搾り時です」が届くだけで、説明書だけの接点よりも強い関係ができ、醤油の中で最も思い入れのあるブランドとして記憶されると思うんですよね。

二本の川は合流しない

もう一つ、意外だったことがあります。ECの流入がどこから来ているかを伺ったら、蔵見学ではなくSNSでした。ある商品の動画が数百万回再生されて、海外からも「どうやって買うの」という問い合わせが来るそうです。

つまり、この蔵には二本の川が流れています。

来訪の流入とSNSの流入が中温層で合流しない構造図

川①は蔵に来る人です。団体バス、ドライブの途中、ツーリング。無料で見て、試食して、直売所で買って帰る。年に10万人規模になっても、名前も連絡先も残りません。

川②はSNSで知る人です。蔵には来ないまま、ECやモールで買う。

そして二本の川は合流しません。川①の人が家で醤油を切らしたとき、川②の入口であるECにたどり着く導線がない。蔵で感動した人が「もう1本」と思った瞬間に最初に会うのが、本体サイトとは別の顔をした通販画面で、贈答用の選択や送料の壁が先に立つ、というのは産地観光型でよく見る形です。世界観の入口と財布の出口が、別の会社の顔をしている。

ここが観光地と決定的に違うところで、観光地には「もう一度来てもらう」という難しい出口しかありませんが、産地観光型には「もう1本買ってもらう」という自然な出口が最初からあります。出口はある。ないのは、川①からそこへ流す装置なんです。

「取らない設定」の接点たち

ここが前回と一番違うところで、今回の蔵には接点が「ない」わけではありませんでした。

入口には顔出しパネルがあって、その下にInstagramとFacebookのQRがある。カフェにはフリーWi-Fiと無料の充電。館内の各ステーションには日英中韓の案内板と、言語ごとの解説QR。公式サイトには英語版とフランス語版があり、当主はブログを月に何本も書き、Instagramには駅からの行き方まで載せている。発信の装置は、正直、僕が見てきた老舗の中でもかなり揃っているほうです。

記念撮影パネルとSNSのQRコード
発信の接点6つと受信の接点2つを並べた図

発信の接点は6つ以上。では受信の接点、つまり客の名前と温度が事業者に残る場所はいくつあるか。有料体験の直接予約と、ECの会員登録。2つです。しかも2つは蔵の両端にあって、10万人が通る見学・直売所・熟成期間という中間には、一つもない。

Wi-FiもSNSのQRも、データを「取らない」設定になっている。体験の予約も、予約サイト経由で入った分は名前が予約サイトに残って、蔵には残りません。

発信過多、受信ゼロ。僕はこの状態をそう呼んでいます。デジタルに積極的な当主ほど、この形に陥りやすいのかもしれません。発信の装置を増やすことと、受け取る装置を作ることは、別の仕事だからです。前者は一人でもできますが、後者は「誰の名前を、どこで、何のために残すか」を先に決めないと動かない。

前回も書きましたが、ここでも——組織図に沿った分断

最後に、駅からの導線の話です。

駅に掲示された伝統的建造物群保存地区への案内

駅に着いてまず目に入る観光の案内は「伝統的建造物群保存地区まで徒歩約15分」でした。町最大の集客装置である蔵への案内は、駅には一つもありません。行政の看板が指すのは文化財地区で、民間の蔵は幹線道路側に自前の看板と駐車場を構え、Instagramで駅からの行き方まで自分で出している。

駅からの動線と幹線道路からの動線を分けて示した図

前回の柳川では、駐車場の情報がイベントの主催者ではなく観光協会から出ていました。今回は向きが逆で、民間が公共の穴を埋めている。向きは逆でも、動線が来訪者の順路ではなく組織図に沿って分かれている、という構造は同じです。2回連続で見たので、僕はこれをシリーズの語彙として持っておこうと思っています。

そして今回も、人力ミドルウェアがありました。手書きの「じょうご」のラベル、ビニールテープ、電話とFAX、そして何より、当主自身が案内をしている。システムとシステムの隙間を、人の声と紙が埋めている。前回も書きましたが、これは悪いことではありません。ただ、人力で埋めている場所は、そのまま「データが残らない場所」でもあるんですよね。

温度モデルで見た産地観光型

低温・中温・高温の3層と引き上げ装置の欠落を示す図

低温層は立ち寄る人。中温層は体験した人と買った人。高温層は繰り返し買う人。産地観光型が観光地と違うのは、高温層の出口が最初からあることです。消耗品ですから。

欠けているのは二つの引き上げ装置です。低温層から中温層へは、Wi-Fi・SNSのQR・体験予約を「取る」設定に変えること。中温層から高温層へは、熟成の1年間に届く通知。どちらも新しい仕組みを作る話ではなく、すでにある接点の設定を変える話です。ここが、産地観光型の希望だと僕は思っています。

Enlytの支援現場でも、順風路さんの予約LIFFのように「電話予約が8割」という現場から始めることが多いんですが、うまくいくのはいつも、ユーザーに新しい習慣を求めない設計です。すでに客がやっていること——ボトルを振る、Wi-Fiにつなぐ、記念写真を撮る——の隣に接点を置く。それ以上のことをお願いすると、温度が下がります。

明日から使える3つの問い

最後に、産地観光型の現場にいる方へ、3つの問いを置いておきます。

  1. うちの体験は、家に帰ってから何日続きますか。その期間に、うちから何か届いていますか。
  2. うちに来た人の名前が残る場所は、どこですか。それは中間にありますか、それとも両端だけですか。
  3. 駅の案内は、うちを指していますか。指していないなら、いま誰がその穴を埋めていますか。

3つとも、答えるのに新しいシステムは要りません。説明書と、Wi-Fiの設定画面と、駅の看板を見れば分かります。

まとめ

湯浅醤油さんの蔵は、見学を無料にし続ける思想、百年の桶と新しい樽、5言語の説明書と、体験の設計がとても行き届いていました。そのうえで、産地観光型に共通する構造として見えたのは、熟成期間という最も濃い関係期間が空白であること、蔵に来る川とSNSの川が合流しないこと、発信の接点は多いのに受信の接点が両端にしかないこと、そして駅からの動線が組織図に沿って分かれていることの4つです。

前回の柳川と合わせて、シリーズの語彙が少しずつ増えてきました。温度モデル、人力ミドルウェア、組織図に沿った分断、そして今回の熟成期間=関係期間。次は、また別の産地観光型の現場で、二本の川が本当に合流しないのかを確かめに行こうと思っています。

貴重な時間をありがとうございました。

FAQ

Q. 蔵見学型の事業者は、まず何から手をつければいいですか。

A. 新しい仕組みを作る前に、すでにある接点の「設定」を見直すことをおすすめします。Wi-Fiの接続画面、体験の予約フォーム、SNSのQR、持ち帰り品の説明書。この4つのどこで名前が残るかを確認するだけで、打ち手の優先順位はほぼ決まります。

Q. 熟成期間の通知は、LINEでないとだめですか。

A. いいえ。相手の温度に合わせるのが原則です。海外からの体験者にはメール、国内のリピーターにはLINE、高齢のお客様には紙の暦でも成立します。大事なのは媒体ではなく、「いつ、何回、何を届けるか」がすでに説明書に書いてあるという事実を使うことです。

Q. 予約サイト(OTA)経由の予約でも、顧客データは残せますか。

A. 予約サイトの規約上、名前や連絡先は事業者に渡らないことが多いです。ただし当日に体験者自身が登録する接点(受付での案内、持ち帰り品に同封する案内)を用意すれば、予約経路に関係なく関係を続けられます。

Q. 無料の見学を有料にしたほうがデータは取れますか。

A. 有料化は温度の高い人だけを残す代わりに、母集団を大きく減らします。無料で広く受け入れる思想を持つ事業者ほど、有料化ではなく「無料のまま名前が残る接点」を設計するほうが構造に合っていると思います。

Q. このシリーズは営業のための記事ですか。

A. 直接の営業ではありません。僕が現場を一つずつ歩いて、同じレンズで見た構造を書き残していく記録です。ただし、ここに書いた診断の視点はEnlytが実際の支援で使っているものなので、自分の現場を同じレンズで見てほしいという方は、ご相談いただければ一緒に歩きます。

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